ゼロ号患者の痕跡【第2回】La 2ème partie de l'article

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© Olivier Fabre / Armée de l’air / Défense

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ゼロ号患者の痕跡【第2回】

1月31日午後、中国からの帰国者を乗せた飛行機がブーシュ・デュ・ローヌ県イストルの軍飛行場に着陸した。武漢の飛行場でかなりの待ち時間を過ごし、12時間の飛行で疲れた様子の帰国者たちが機外に出る。彼らは武漢出発前に軍医による問診を受け、あらゆる予防措置を講じられていた。その中に鼻水を流していた人と微熱がある人が発見され、彼らは機体の後尾に隔離されて帰国した。機体は、フランスの基地を出発し、イストル軍空港に到着するまで、武漢以外、どこにも寄港していないと国防省は言う。

フランスに着いた乗客は厚生相アニエス・ビュザンの挨拶を受けた後、すぐに移動、14日間隔離の為に用意された休暇村「ヴァカンシエル」へ収容された。ビュザン厚生相はこの3日前に記者会見を開いていたが、新型ウイルス危機には言及していない。だが、帰国者たちには国防省によって定められた厳しい規則が待っていた。14日間のマスク装着義務及び外出禁止、その間に2回〜3回の検査を受ける。一方、乗員たちは乗客と装備を下ろした後、ロワッシー空港へ向かい、そこで基地にも寄らず、帰宅した。

彼らは戦地から兵士を脱出させる訓練を受けており、彼ら自身がパイロットである場合が多い。彼らには「観察プロトコール」があり、自宅隔離、対人距離確保、体温計測が義務付けられている。3月4日のテレビ・インタヴューでフロランス・パルリー国防相はこう説明し、彼らは「検査」も受けたと付け加えた。何の検査か?「生物学検査は受けていない」ということを国防相は認めようとしないが、クレイユ基地責任者であるブリュノ・キュナ大佐は3月2日付ル・パリジャン紙のインタヴューで「彼らを隔離する理由は何もなかった」「彼らは危険因子とは見なされていなかった」と言っている。

基地で働いている軍人と職員から成る約60の家族は3万5千の人口のクレイユに住んでいる。将校たちはもっと瀟洒なサンリスやシャンティリーの方である。後に国防省は「この任務に就いた隊員の家族の追跡調査は行わなかった」と答えている。つまり、彼らの配偶者や子供たちは何の制約も受けずに職場や学校、友達のところへ行っていたということになる。誰も病気にならず、隊員たちの理論上「14日間隔離」が終了したのは2月中旬のこと。「彼らはウイルス保菌者ではありませんでした」とパルリー国防相が言い、基地責任者は「症状を示したものはいませんでした」と検査なしでの発言に口を濁す。

 

2月12日、ドミニク・ヴァロトーが熱を出した。彼は、クレピ・アン・ヴァロワ(人口1万5千)の中学の工学部教師である。医者はインフルエンザと診断し、彼に欠勤するよう促した。これは春休みが始まる3日前のことである。ヴァロトーはオワーズ県とエーヌ県の県境にあるヴォモワーズ村に住んでおり、クレイユへは車で30分の距離である。彼はもうすぐ60歳、4クラスで教鞭を取っており、村議会議員もしていた。

 

その翌日の2月13日、今度はコンピエーニュの森近くにあるラ・クロワ・サン・オアンのジャン・ピエール・Gがインフルエンザで寝込んだ。彼は人口5千人のこの村で55年前に生まれた。そして30キロ離れたクレイユ基地で働いていた。彼の仕事は清掃員や庭師など外部サービスとの折衝だった。スポーツマンのジャン・ピエールはコンピエーニュのダイビング・クラブのコーチや町のバドミントン・クラブのメンバーでもあった。

 

2月16日、ジャン・ピエールは呼吸が苦しくなり、午前9時に彼の妻ナタリーが救急に電話した。そして彼はコンピエーニュの病院に運び込まれた。夕方、彼は内分泌科の二人部屋に入院する。この時、病院には呼吸器科のベッドに空きがなく、他の患者と同部屋になったのである。ナタリーは「看護師さんたちは誰も防護できるものを身に付けていなかったわ」と回想する。この前日に、フランスは新型コロナウイルスによる第1号犠牲者を出していた。この患者は80歳の中国からのツーリストだった所為か、危機感を持つものは誰もいなかった。

 

ジャン・ピエールのインフルエンザ検査の結果は陰性にもかかわらず、容態は悪化する。18日、彼は集中治療室に移され、人工的昏睡状態におかれ、人工呼吸器を装着された。22日、コンピエーニュの病院はアミアン大学病院の感染症権威にコンタクトをするが、この時点では「彼が中国や汚染地帯からの帰還者ではない」という理由で新型コロナウイルス検査は必要ないとされた。23日夜半、彼はアミアン大学病院に急送される。容態がさらに悪化し、人工肺が必要となったが、コンピエーニュにはこの装置がなかったからである。

 

25日朝、コンピエーニュの病院のふたりの医師がジャン・ピエールの血液検体をパリへ送る。そして、検査結果が出た。彼らはその夜、電話で「あなた方のところに新型コロナウイルス感染者がいます」との知らせを受けたのである。同じ頃、アミアンの病院も同じ検査結果を受けた。すぐにフランス保健局へ連絡し、ジャン・ピエールはフランスでの「15番ケース」、15番目の感染者となったのである。この時点では、フランスはまだ患者を数えることができていた。その数時間後、25日夜半に、今度は、パリのピティエ・サルペトリエール病院集中治療室で教師のヴァロトーが息を引き取った。肺血栓塞栓症を起こしたのだった。彼は17番ケースと呼ばれており、新型コロナウイルスの第1号フランス人犠牲者となった。しかし、まだフランス人たちは暢気に構えていた。

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